この一年でスペイン語がかなり身についた

やはり本を買ってきてそれだけで勉強しても効率が悪いのだった。
ネットで手に入る膨大な文章を元に単語帳を生成しまず最低限の単語を覚えた後、ネットで手に入る生きたスペイン語が使われている動画やストリーミングを使って耳を慣らし、それと並行して本を使って文法などを少しずつ身に着けていく、という方法で大きく進歩した。
それ以前さっぱり身につかなかったのは、最初に買った本の出来が極めて悪かったことと、生きた見本がなかったのが問題だった。
特にこの数年の間にラテンアメリカスマートフォンの普及が進んでネットにスペイン語のコンテンツが激増した恩恵が大きかった。スペイン語のリスニングは英語とはまた違った難しさがあって、教科書的な勉強だけでは全く役に立たない。


ずいぶん理解できるようになったことで、楽しめるコンテンツが急に増えた。
ずっとネットというものに退屈していたのでうれしいことではあるが、一方で以前から感じていた「スペイン語など学んでも無意味かもしれない」という漠然とした印象の正体も見えてきた。
ずっと前にオランダ語アラビア語をかじったときには「無意味かもしれない」ではなく、はっきりと「無意味だ」と断言できていた。あれはその土地の言葉とは別にその土地の人にとっての"余所行き"の言葉があって、外部の人間が聞いて意味のあるような話はたいてい余所行き言語の英語で得るほうが手っ取り早かった。
言葉に注目するとその社会は上下に二分された階層があって、ローカルな方を見ると世界中どこにでもあるありふれた日常のバージョン違いのようなものが見えてくるだけだったのだ。人間というのはどこに行っても根っこの部分では大差ないのかな、という感想を得てやめたのだった。
スペイン語の場合、スペイン語圏が巨大なので皆スペイン語だけできれば上から下まで何でも揃う、という感じで、したがって高尚な話から下世話な話まで全部視界に入ってしまう、そのせいで見る必要のないものや見たくないものがたくさん視界に入ったから無駄かもしれないと印象を時々受けていたのだった。
英語は国際語としての性格が強い分幾分高尚だったり難解だったりする話が多いのだろう。その英語と比べるからがっかりすることが多かった。
だが日本語で経験していることとだいたい同じなわけで、以前感じた根っこの部分では大差ないというのが確信に変わってきた。
ある意味ではようやく人間というものが理解できてきたということなのかもしれない。
今まで人間についてあまり理解できていなかったということに気づくというのはなんだか奇妙な気分である。
人間について理解できていないということは自分自身のことも理解できていないということを意味するだろうし。


それで、日本の人口の4倍ほどを擁する文化圏のコンテンツが楽しめるものとして現れた結果、その量に圧倒されている。
スペイン語に似た言語についても結果的に少しだけ理解できるようになるので、その分も合わせると見える世界の広がり方は実に劇的だった。
英語がわかってきた頃も世界の広さに気づいて感激したものだが、余所行きでない丸ごとの文化圏が見えるようになるのは次元が違う。


これだけ見聞きできるものが増えると、自分自身が変わっただろうと思う。違うことをしているという意識はないものの、以前の自分ならそうはしなかっただろうと後で気づくという経験が増えてきた。
人間的な成長にもつながっているように思う。
なんとかしてスペイン語を身に着けるべきだと感じてだらだら続けてきたが、ようやく実を結んだ。
あとは単純に語彙を増やして背景となる文化について理解を深めればスペイン語圏で不自由なく行動できるようになるだろう。
ある程度の達成感を感じている。