使う言語によって思考が制限される

ドイツ人はドイツ語を話すから厳格なのだ、という話を聞いたことがある。
自分自身の経験からも、使う言語によって思考が左右される、あるいは制限されるということは常々思い知らされてもいる。
特に日本語は物事を体系立てて把握するのが非常に苦手な言語のように思う。
羅列されたたくさんのものをそのまま写生するようなのは逆に得意かもしれない。
しかし体系立てずに取り組めるものなどその規模は高々知れている上、可能ではあっても効率が著しく悪い。
対照的なヨーロッパ言語の方がそういう時効率がいいのは確かだろうと思う。
一方で、ヨーロッパ言語のみを使う人たちはその体系から外れたものを理解するという、能力というか発想というか、あるいは柔軟性のようなものは決定的に欠けているように思う。
日本人が苦もなくやっていることがヨーロッパ人にとっては"発想の大転換"を必要とするものだったりするのはそういう理由があってのことなんではないか。


言葉にまつわるいろんな経験を踏まえると、日本人にとって英語を学ぶ、さらに身に付けて使いこなせるようにすることは、単に他人との間の意思疎通のためのインターフェイスを増やすという以上の意味があるように思う。
とてつもない価値を持ったことだと思う。
同時に、物事の捉え方を根底から再定義してしまうようなことが簡単にできるものではないこともわかっているし、誰にでも出来るとも思わない。


で、日本で日本企業が社内の公用語を英語にする、と。
決めたやつがろくな語学力を持たないことの証明程度にしかならないのではないか。