いろいろと自分に変化が起こった気がする

この1年の間に様々なことを知った。
一つ知れば連鎖的に他のことも知ることになり、正直知りたくもないことまで知ることになっていく。
かつて経験してそれなりにきちんと理解していたつもりのことが、新たに知ったことをもとに捉えなおすとずいぶんと違った理解になることが多く、自分の判断基準としていたものの多くを再構成しなければいけない事態になった。
世界観が根底から覆る、とまではいかないものの、ものの見方や評価の仕方が否応なしに変わる。
だがそうやって描き直した風景が、中途半端に世の中のことを知った時期の理解より何も知らなかった幼児期の印象に非常に近いのだ。
なんだやっぱりそうだ、ほらみろやっぱりそうじゃないか、という、嘘つきだと誰かを責めたいような気分すら湧き上がってくる。
でも子供の頃先入観を持たずに自分で判断した内容が概ね正しかったことが分かってほっとしているのも事実だ。


誰でもがネットを使うようになって誰でもが何でも知ることができるようになれば世の中は良くなる、と思っていたが、実際はそうでもない。
大半の人は見たいものだけを見る。見たくないものが視界に入った場合甚だしくはその対象の存在を否定したり壊したり殺したりしようとする。そういうのがわりとごく普通に見られる。
ネットがそのための手段として使われている。
良く使えばより良くなるものが常に良く使われるわけではないのだ。そもそも善悪自体絶対ではない以上、対立する一方が良く使えばもう一方にとって悪に見えるだろう。


悪い意味で、誰もがネットを彼らなりに使いこなすようになった、ということだろう。
ではネット外は平和なのかといえばそれは当然違っていて、昔からある不和の類は依然として有るし、ネットやコンピュータに縁のない人特有の面倒や、それを前提とした諸々の行動様式がどうにも耐え難いものになってしまう等々、どちらを向いても嫌な気分になるものが必ず見つかる。


そういうのが嫌で今年中ごろは気分を害すようなものは徹底的に視界から排除するよう心掛けていた。
だがそうして数か月過ごしてみて、全体として何かが良くなったかというとそうでもなかったのだ。
結局以前とあまり変わらない、色々と雑多なものが見えるように戻した。自分にとって耐えられない、限度を超えているように感じられるものも時々見ないと、自分の立ち位置が分からなくなる感じなのだ。
つまり自分は自分の中に絶対的な判断基準を持ち合わせていないということなんだろう。
これは慣らされれば流されるということでもあるように思う。
振り返ればあの時注意を緩めたのは間違いだったと反省している出来事はいくつもある。慣れてしまったせいで事の重大性を徐々に過小評価するようになっていたのだ。
また、そういう風に誘導する者がいることもよく覚えておいたほうがいい。


ユートピア的なものはネットのどこを探してももう見つからない。
誰かがそういう空間を作るに違いないと期待していたが、そんなものは実現不可能なのだ。
せめて自分が個人的に使う範囲だけでも快適に整えておくくらいのことしかできない。
残念だ。
残念だが、そうと分かった以上頭を切り替えていくほかない。
その結果かつて自分が嫌った人間に自分自身がなることになるのかもしれないが、その嫌っていた自分は誰かに緩やかに騙されて作られた自分だったのかもしれないのだ。
子供の頃低い身長から見上げて思ったことを思い出すと、別に悪いことではないようにも思える。