年に一度しか書かないのはよくない

元々PCネタを書くつもりだった。
それに伴ってネットのことも書いた。
世の中でネットの利用が広がるにつれネットを通して見た人間のことも書きたくなるが、それはちょっと本来の目的と違う気がして避けてきた。
そこに触れるとどんなことでもPCネタの延長に含まれてしまう。
実際のところその通りで、世の中に遍くコンピュータとネットが行き渡った結果そうなったのだと考えるべきなんだろう。
期待していたのとは違う形になっているからなんだか納得いかない感じになってる。


この2年くらいの間に世の中の大きな分断を目の当たりにして心底驚いている。
どのように受け止めていいのか正直わからないままになっている。
ありきたりな言い方をすると、時代についていけているかどうかで分かれている、という感じなのだが、最先端にいることに意味があるわけではなくて、それはむしろ普通で、ついてこれない人々が得体のしれない集団を形成していて恐ろしい。


ああ、恐ろしいと言えばいいのか。
書いてみて今初めてそういう表現を使った。
やはりもっと考えを書いて出したほうがいい。
なんにしろ彼らは彼らの行動がこちらに損害を与えていることを理解していない。
理解できない場合もあるだろうが、わざと理解しようとしない者がいるのも間違いないだろうと思う。
それ以外の生き方を選択する余地がないというか、20世紀と同じことしかできないというか、そういう層があって、そのままのやり方で必死に居場所を守っているような、そういう感じ。
その周辺に、縄張りを守ろうとするカラスのような必死さを卑しさを感じて、そこにある種の恐怖を感じる。
こちらはお前らの巣なんかどうとも思っていない。


こうやって書いても彼らの目に触れることはないだろう。
彼らは知ることを拒絶する。
彼らにとって知は地獄の扉のようなものらしい。
地獄へと続く扉ではなく、地獄である彼らの居場所を封印する扉のようなものだ。
知とは出口のはずなのに、未知の世界でもがくより慣れ親しんだ地獄で苦しむほうが快適だと考えている。
地獄を生き抜いたことにアイデンティティを置くが故そこを離れることは自己の破壊を意味する、とでもいうような、そんな振る舞いをする。


幸いなことに、こちらが何を言おうともあちら側には届かないのだから、何でも言いたいことを言えるということだ。
直接語り掛けるようなことさえしなければ問題は起こらないだろう。


じゃあなんでもかんでも書くのか、というと、そういうことはしない。
こうやって書いていてもなんだか得体の知れない嫌悪感に襲われている。
それでも何か書いたほうがよさそうだからあえて書いているのだが、まあ書くうちにもうちょっとはっきり見えてくるだろう。


スペイン語のほうはゆっくりながら進歩していて、英語学習の初期と比べれば格段に速く身についている。
だがスペイン語の世界観というか物事のとらえ方というか認識の特徴というか、その深層にあるものが十分につかめずにいる。
少しは理解できているだろうとは思う。無意識に自分自身の考え方が根底から変わっているかもしれない。
おそれくそれが原因で自分とは切り離された観測対象としての日本人について何がしかの評価を下せるようになった気がしている。


だがそうやって得たある種の評価を観測対象にぶつけても何の意味もない。
そして、ここに何かを書くという行為はそのぶつけることに他ならないと思っていた。
それでも何か書いたほうがいいように感じている。
それは自分の神経の一部を切り捨てるような行為にも思える。少し無神経にならないとできない。
しかし、もしかするとそれこそが今の自分に必要なことなのかもしれない。