創造、想像

16日のエントリーに関して。


PCゲームではリアリティを追求してゴージャスな方向に向かっているが、どうやらゲームそのものの満足感はゲームボーイとかの方が圧倒的に高いらしい。


もっとも、それぞれに求めているものが違うだろうし、PCゲームのほうがプレーヤが厳しい目で評価する傾向があることも考えなければいけないが、それを踏まえたうえでも、表現が詳細になればなるほど製作側の価値観をプレーヤに押し付けることになり、それを歓迎しない人が、自分を含めて結構いるのではないだろうか。


長く楽しまれているゲームを見てみると、どれも登場するキャラクターに個性がない、或いはプレーヤの想像力が働く余地が多分にある。
"人物"という器が用意されていて、それを活き活きとしたものに変えるのはプレーヤ自身である、という形になっているものは比較的長続きしているような気がする。

製作者の価値観で個性が織り込まれてしまっている場合、あっという間に姿を消すか矢継ぎ早に続編を出すことでしかビジネスを維持できていない気がする。


ここ最近、ごく普通のBlogでゲームについて書いているのを時々見かけるのだが、


ゲームはもはや成熟の域に達してしまい、新しい類型のものは生まれないのかもしれない。だからこそ綺麗な画面やDVDが見れます、などのゲームの本質とはかけ離れた部分で各社が勝負をしようとしてるのであろうか。
というあたりに、ごく普通の人でも気付くようになっている。
これはつまり

任天堂は過去の遺産を引っ張り出してきても十分勝負になる
という状況に達していることを意味しているわけで、

こういった戦略は停滞と感じざるを得ない
と感じている人は少なくない。


そうはいっても、最新のゲームは楽しい(ものもある)し、映像が綺麗なほうが自分は好きだ。映像が綺麗で、かつ余計な個性を感じさせないゲームだってあるわけで。