この一年を振り返って

今年の初め、"今年の抱負"として情報収集技術に磨きをかけること、その一環として語学をもっと学ぼうと決めた。
情報収集技術については、ツールの変化が思った以上に早かったことや調べる対象が絶えず変化するものだったため、当初考えていたような形で"磨きをかける"ことはできなかった。
手段には何の変化もなかった。
変わったのは、以前よりも多くのツールを使って多面的に調べるようになったことと、糸口として見つけたものをより深く追うようになったことだろうか。
サーチエンジンはその糸口を見つけるためにだけ使っている感じで、個々の重要度は大幅に下がった。
結果としてここ数ヶ月の検索方法は、インターネット黎明期にメジャーだった方法そのもの。
Hyper Link の利点を最大限に活かしての資料探しになった。


検索対象となるWWWにはこれまでにない怒涛の勢いで雑音が、ノイズが追加されていった一年だったと思うが、最終的に採った方法ではこの雑音はほとんど影響がなかった。
住み分けが始まっているというか、雲の上と下が意外とはっきり分かれている感じ。
強いて影響があったものを挙げると、Googleが大衆化したことで雑音を有用かつ重要なものとみなすようになり、時には使い物にならないものになったことくらいか。
最近著作権について調べた際にはGoogleはまったく使わずAltaVistaを使うことになった。


語学について、以前から必要性を感じていたドイツ語は実際に勉強したものの、本当に重要な情報はほぼ間違いなく英語化されていて実際に使う場面はなかった。
日本のことを調べる場合でも、日本語で日本のサイトを調べるよりも世界全体を対象に英語で調べたほうが効率がよかった。
自分の居場所から数十分で着く場所で起こった出来事がどこよりも早くBBCやFTで報じられているのを見て日本のニュースサイトが如何に劣っているか実感した。
誰かとコミュニケーションをとる必要がある場合についても英語がわかれば事足りるケースばかりで、また、相手が日本語を話せるケースが急増したので、結局英語以外の言語を操れるようにはならなかった。
英語だけわかれば特段不便を感じないことがわかってしまったわけだが、ローカルネタを知ろうと思ったらやはり現地の言語がわからないとどうにもならない。
英語化の需要が弱い地域、具体的には中東や中央アジアの情勢や現地で暮らしている人たちの視点はまったく知ることができなかった。


いろんなものを調べてみて、なぜこんなにも世間の人たちは簡単なことすら何も調べず知らないまま生きていられるのか、という疑問が出てきた。
日本人は知ることを欲しないのだろうか、とまで思った。
"知らないままでいる幸せ"を選択しているようにしか見えない。
物事を調べて理解が深まりいろんな意味で見通しが利くようになってみると、無知で脳内お花畑な状態はあらゆる意味で良くない、悪いと言い切れる。
だが同時に、他人に向かって「知りたがれ」と強要することは不可能なので、これがつまり日本人の限界なんだろうなぁと感じている。
困ったことに、理解が深まったときに見えてくるこの世の姿は、何も知らない時に思い描くものとはまるで違っていて、理解が深まった段階で考え出す"向かうべき方向"乃至"進むべき道"は、何も知らないひとには馬鹿げているようにしか見えない。
日本が形だけでも民主主義をとっている以上こんな有様ではこの先日本は唯々堕ちて行くことになるだろう等々考えると、背筋が凍るような思いだ。