アラビア語の勉強を始めたのだがその過程で日本人の視野の狭さを痛感

インターネットを利用する以上、それ以前にコンピュータを使う以上、英語は嫌でも分からないといけないし、嫌でも放っておいても自然に身につく。
英語が分かるようになると英語を使う人たちの意見は自然と耳に入るようになる。
当然個人の意見だけでなく国家のプロパガンダ等々も耳に入るし、無自覚にその影響を受けてしまう。
必ずしも好ましいことばかりではない。


言語を学ぶということは単に意思疎通のツールの利用方法を知るだけでなく、その言語を使う人たちのイデオロギーや価値規範、さらには哲学までも学ぶことになる。
いわゆる受験英語ではツールの仕様を知る程度にしか接しないが、ああいうのは本当の意味では勉強したうちにはいらないと思う。


自分が英語以外で最初に勉強したのはロシア語だったが、あの時ロシア人気質を知るとともに英語を喋って暮らしている連中のロシア人観がいかにいい加減であるか思い知った。むしろアメリカ人の振る舞い方の方が常軌を逸しているとすら感じ始めた。
その次に選んだのはオランダ語だったが、ドイツ語的厳密さの中に英語的な緩さもあり、なるほどこれなら実利的な国民性になるわけだと感じた。
最近になってドイツ語をかじったが、ドイツ人が厳格なのはドイツ語を話すからだ、というのは嘘じゃないと思う。


で、今、世界地図を見ると自分が全く理解できない言語が使われている範囲がまだまだ広い。
基本的にヨーロッパ系の言葉を使っている人たちはドイツ人たちと比べてヨーロッパ的な面はそのままに大幅にいい加減いろんな意味で許容度がぐっと増す感じだと理解していいらしい。
そういう意味においては彼らがどんな考えを持った人たちなのかその大枠は分かる。
ところが、アラビア語ペルシャ語を話している人たちのことはほとんど分からない。
中東から日本に来ている人はたくさんいる。
が、なぜか彼らはあっという間に日本に溶け込んでしまって、ハラールレストランのシェフが自宅ではみそ汁を毎日食していたり、中にはムスリムのくせに「豚トロおいしい」とか言ってる人までいるくらいである。
言葉も欧米人と比べると流暢な人が多い。
素のアラビア気質に触れる機会は皆無といっていい。
ヨーロッパの言語の場合共通点が多いので見慣れない言語でも何となく分かるところが少しはあるものだが、中東の言葉はこれまで触れた言語とはまったく違うのでさっぱり分からない。


分からないが、興味、好奇心は止まらない。
この場合自分から動かないと決して知ることはできないらしい。
じゃぁ動こうじゃないの、と。
そういうことでアラビア語の勉強開始。


ところが、だ。
勉強に使えるものがない。
テキストとか教科書とか、そういう類のものがほとんどない。
それどころか辞書すらまともなものがない。
外語大とかでどうやって勉強してるのかと思ったら英語でアラビア語を勉強するのだそうだ。
確かに英語のテキストならAmazon.comで探すとたくさん出てくる。
が、その中でもベストセラーな辞書は元々ドイツ語で書かれたものを英訳したもので、それ以外でもテキストの数は多くても良質なものが多いわけではないらしい。
色々苦労する予感。
英語と英語文化に染まりきった現状を変えたいというのがアラビア語学習開始の最大の理由なのに、英語で勉強するしかないとは、なんという皮肉。


このアラビア語テキスト探しの過程で、日本人てほんとに何も知らずに過ごしてるんだなぁ、ということを改めて痛感した。
逆に言えば、日本に於いては外国語が分かることは非常に強力なアドバンテージになる。


.....
アルファベットを覚えるだけで手間取った。
今までで一番異質だったのはロシア語で、英語のアルファベットの対応するもので言うとABVGDという始まり方をするのだが、途中は英語とまったく一緒だったので簡単に覚えられた。
しかしアラビア語は根本的に異なっている。
2つだけロシア語で使うキリル文字と形も音もそっくりなものがあるが、わかるのはそれだけ。
単語としてつなげて書くと形が変わるし。
初めて英語を勉強した時も多分こんな感じだったのだから、地道に続けよう。